古賀幸雄氏の著書「ふるさと歴史漫録」の中に、下記のお話が載っています。
平成5年 83ページ
池町川の古名は苧扱川
現在、本町と呼ばれる町筋は、前とかなり様相が変わったが、明治九年(一八七六)から昭和七年(一九三二)までは苧扱川町と称されていた。 私共の少年時代に聞きなれた懐かしい町名である。この町は藩政期は原古賀町と公称され、 三本松町といまの池町川で区切られ、ここを起点に一丁目から南へ七丁目まであった。つまり旧柳川往還に沿う町並みである。 しかし古い記録では、二代藩主忠頼の時代、明暦年間(一六五五〜五八)に、 原古賀も苧扱川も共に同じ通りを指す地名として出る(例、「古代日記」)。原古賀が公称化されても苧扱川の名は俗称としてしばしば用いられ、現本町の諏訪神社境内の古い記念碑には、「原古賀第三街」(三丁目) と 「苧水第三街」の両方が使用されている。
ところで、昭和初年編さんの「久留米市誌」上巻の「町村名」の項(三一〇頁)には、苧扱川町の名の起源につき、「往昔、苧扱川と称する河川、此の町 (本町)を貫流せしより、河名を採りて町名とせりとぞ。現今同町五六丁目の境に幅約八尺の小川ありて、裏町(現松ヶ枝町)の南「かんちんたん」に注げるもの即ち是なり」とある。
このことについて、市文化財調査係の古賀正美氏(会員)と いろいろと検討した結果、苧扱川町名起源は別に求められることがわかった。若干その根拠となる史料をあげたい。
元禄十一年(一六九八)四月二十四日の 「石原家記」の記事 に「原古賀一丁目より三丁目迄 但橋際より西福寺、凡百四十軒程消失」とあり、「米府年表」と「元宝記」にもこの火災 につき「苧扱川橋より南西福寺迄三丁程消失」と述べている。右文で注目されるのは、町の丁名の基点となる「苧扱川橋」である。いうまでもなく前にも記したように、いまの池町川に 架かる橋でなければならない。つまり池町川は苧扱川と同じものである。
さきに扱川の名が古く明暦年間に出ると記したが、一方の 池町川はどうだろうか。今日まで史料に見られる 「池町」の名称は、寛文十年書き上げの 「社方開基」によれば、同元年(一六六一)に初めてこの町かでき、山伏一乗院と同本寿院が一丁目に他から移り住んだという。この町が成立した後に池町川の名が生まれてくるが、元禄時代には三本松町原古賀町境の橋 (延宝八年(一六八〇〉城下図にも、後の天保図にも木橋らしく見える)を古い 「苧扱川橋」の名で記しているわけである。しかももともと池町はこの橋よりずっと下流(米屋町 細工町の南側、川両側)に成立している。以上の見地から私共は、従来の説を捨て、「苧扱川は池町川の古名」説を採り、今後の藩政期域下町研究を進めていきたい。
この説は、現在定着していて、久留米市の文化財課からも断定的な記事が出ていました。確かに、モットモなお話です。石原家記も確認してみました。
でも、僕にはちょっとわからない点があります。
まず、下記の天保年間の久留米城下地図を見てみますと・・・
緑の矢印は、苧扱川橋を指しています。池町川を渡る橋です。
そして、昭和初年編さんの 「久留米市誌」には、
「往昔、 苧扱川と称する河川、此の町 (本町)を貫流せしより、河名を 採りて町名とせりとぞ。 現今同町五六丁目の境に幅約八尺の小川ありて、裏町(現松ヶ枝町)の南「かんちんたん」に注げるもの即ち是なり」
と記されています。
この記述からすると、赤い矢印から青い矢印方面に向かって流れる川が苧扱川となるわけです。
池町川=苧扱川なのか? それとも、南側にある川が苧扱川なのか?
気になるのは、現在の地図に「おこん川公園」というのが登場するのです。
この公園は、上の地図の青い矢印のところになります。「かんちんたん」と呼ばれた湿地帯です。裏町、現在の松ヶ枝町の南側になります。
久留米市公園管理事務所に問い合わせてみました。
質問:「おこん川公園」の名前の由来について教えて下さい。
結論としては、不明ということでした。
現地に行ってみました。そして、年配の住民の方に質問してみました。
「この近くに苧扱川という川はありますか?」
答:公園の横に溝のような川がありますね。あれが苧扱川ですヨ」
さてさて、どう判断すればいいものか???
【僕の仮説】
「苧扱川」とは、そもそもは、固有名詞ではないのかもしれない。水害をもたらしやすく、崩れやすい川、そういった川のことを苧扱川と言ったのではないだろうか?
かつて、苧扱川は苧漕川と書いたという資料もあるようです。
僕は、下記のブログに大きく心を動かされました。