いろいろ・・・

写真を発見しました

2021年8月

 国分のお堂で、こんな写真を見つけました。さて、この不動明王はどこでしょう?どなたかご存じないですか?

 

なんとなく明治時代のように思われます。ハカタという文字が見えます。こういった写真は、ちゃんとデジタル保存しておきたいものですね~。多少、大きな写真を持っています。ご入用の方はご連絡ください。

またもや、混乱情報

2020年5月21日

鳥栖市田代上町に昌元寺という天台宗のお寺があります。ここに弘法大師像があり、その裏側に下記のようなことが刻まれているのだそうです。

【要約】

四国霊場の土を請けてきて肥前国三養基郡と筑後国三井郡にまたがって、「明治四国」という写し霊場を作った。しかし、霊場が200にも増え、信者も千人となったので肥前と筑後に分けることとした。

明治39年7月21日

 

というのです。え?この筑後って、三井郡だよね~。小郡辺りだよね~。つまり三井川北四国霊場とかぶるよね~。と思いながら、三井川北四国道中案内の小郡寺福童の熊手文雄宅のお堂の石仏を覗いてみると、なんと、「明治四国第14番弥勒菩薩」と彫られているではないですか。当然、三井四国八十八ヶ所霊場においても第14番札書になっているのです。

 

三井川北は明治40年か41年にスタートしたはず。しかも、川南と分離して。でも、ほぼ同時に肥前国との明治四国霊場からも分離していることになります。え~??東西の分離と南北の分離が同時?

一体この時代はどうなっているのでしょう?

 

 

曹洞宗?

2020年5月16日

 

ちょっと「あれ?」って思うことがあります。大正15年に記された「三井川北四国道中案内」。このときのスタートポイントは、小郡市寺福童の禅福寺という曹洞宗のお寺です。このお寺の記録はあまり残っていないようなのですが、明治の中頃に無住寺となっていたところ、地域の有力者がどこからか住職をお連れしたらしいのです。このお寺には大きな修行大師像が立っています。

そして、なんでもこの禅福寺。耳納連山の北面にある、紫陽花で有名な千光寺の末寺なんだそうです。

もちろん千光寺は曹洞宗。そして、千光寺のご近所寺院、霊場でもある大谷にある寺院は大行寺。もちろんこの寺院も曹洞宗。

そんでですよ、三井郡より南になる広川町。ここにも「広川新四国八十八ヶ所霊場」というものがあるんですが・・・

これからが面白いのです。

この広川の新四国の記念碑があるお寺が円通寺というところで、ここも曹洞宗。一時、無住寺化した事もあったようです。

そんでもって、以上のお寺は何らかの繋がりをもっているようなのです。

恐らく、これらの寺院は、明治維新後、結構厳しい状況にあったはずです。ま、真宗以外はどこもでしょうがね・・

なんか、そんな寺院の模索が、遍路の普及につながった可能性も考えられます。。(根拠なしです)

 

 

 

上弓削と下弓削

2020年5月9日

 

くるめ地名研究会の方から面白いことを教えていただきました。「弓削」という地名には、関所のような意味合いがあるのだそうです。関所ではありません。ただ、川を隔てて、こっちとあっち、峠を隔ててあっちとこっち、みたいにペアーになっていることが多いんだそうです。確かに、三井郡の上弓削と下弓削は筑後川を隔てて存在しています。

ネットで検索してみると、いくつか出てきました。面白いな~。。荒川さん、ありがとうございます。

もっと教えて下さい!

 

 

 

見落としていました。地域社会と霊場巡り

  2020年4月6日

まず、下記の写真をご覧ください。 

まだ、この写真の詳細な取材は行っていません。わかっている事は、、、

①小森野のお堂に掲げられている。

②大庭写真館寄贈。

③井手伊次郎寄贈。

④大正十四年五月二十一日御詠歌記念。

⑤そして、写っている人々。

若い女性だけが、笈摺を着ている。。。

ただこれだけです。

 

さて、もう一つ、如意輪寺(かえる寺)のご住職のお話で下記のような内容がありました。

「笈摺(オイズル)の違いによって、着ている人が既婚者か未婚者かが分かった。そして、お参りを通して結婚も生まれていた」

 

この時代、各地で青年団が組織されるなど、政府による国民の一致団結制度が促進されていました。そういった時代背景の中で、三井四国八十八ヶ所霊場も地域社会を作る大きな要素となっていたのではないだろうか?

ただ、信仰・レジャーと捉えるだけではなく、「地域社会」としての要素も鑑みていく必要がありそうです。

かつ、ここのところに、「写し霊場巡り」と「四国八十八ヶ所」との種別の違いが隠されているのかも知れません。

 

※「各地の写し霊場と地域社会」な~んて研究も面白いかも!

 

 

 

 

此処に霊場あり

2020年2月4日

 

道中案内書には、ところどころに「此処に霊場あり」などと行った追加霊場のメモが記載されています。これは、番外の霊場だろうと思ってみていたのですが、もしかしたら「お接待場」かも?という推察が浮上してきました。

さてさて・・お接待場と霊場が分離した形態もあるのでしょうか?

私が四国遍路などを体験していないもので、基礎がなくて無知丸出しです。

 

 

 

 

明治という時代

2020年1月21日

この三井四国八十八ヶ所霊場巡りが始まったのが、明治36年。

山本作兵衛の炭坑記録画のメインと成るのは、明治31年~辺り。

初手物語は、明治30年代辺りかな?

この3つは、繋がっています。

明治という時代は、大きな変化の時代ではありますが、人々の心はその変化について行ってはいないように思えます。石炭を掘り、ポンプが動き、鉄道が走る中、人々は祈祷師にすがっている。

面白い時代です。

 

 

 

マップ上で展開する楽しさ

2020年1月16日

 

この探偵ゲームの楽しさの一つは、マップ上で展開されるところです。愛用するマップは三種類。

① 明治33年測量の地図(データ化)

② 大正15年測量内務省の地図(データ化)

③ 言わずもがな・・グーグルマップ

この3つの地図に、歴史が見えてきます。

道の変化、鉄道の変化、そして陸軍施設の変化などがすべて見えてきます。特に陸軍の増設は面白い。

この三井四国八十八ヶ所霊場が始まったのは明治36年。つまり日露戦争の直前です。久留米に陸軍の施設が増えていったのです。

そして、軍の施設も終戦で消滅。現在のグーグルマップとなるわけです。

 

 

 

 

レジャーと信仰

 2020年1月10日

 

炭坑記録画で世界の記憶となった山本作兵衛の作品を、一つずつ丁寧に読み取っていくと、明治の人々の感性がなんとなく理解できてきます。体調が悪い時は狐が憑いていると考え、多くの俗信を信じる。これを非科学的と考えるべきか、それともこれこそが信仰というものなのか。三井四国八十八ヶ所霊場巡りも、レジャーと捉えていたのか?それとも、信仰だったのか? ま、少なくとも完全なレジャーというわけではないことは確かでしょう。さ、少しずつ探っていきましょう。

 

 

 

感性の変化

 2019年12月15日

 

調べていくうちに、120年という時の中で、人々の感性が変化していったのを感じます。いえいえ、正確には120年前と現在と言った方がいいかな?

先日、嫁さんの友達会話のなかで、「オコボウサンが終わってホッとした。毎年毎年いやだった~」という声を耳にしました。気持は良くわかります。120年というと何世代でしょうか?当然、感性は変化しますよね~。でも、その変化に僕は興味があります。

明治維新後、日本は大きく変化したと思います。政府の宗教政策、西洋化、産業革命。

日本人の心も変化したことでしょう。なんとなく、120年前の人々が日本人の本質のような気もするし・・・

ま、ゆっくり考えてみましょう。