五十三番札所 味坂村 赤川 から 端間 へ



左側に描かれている川は、千歳川、つまり筑後川で、上部、方位的には西に描かれている川は、とく川、現在の宝満川です。赤川から北上していくお遍路道です。


五十三番札所 赤川  北63

 赤川天満宮の入口辺りに、ブロックで組まれたお堂が一つ。そこから、西へ100メートルで赤川神祠。そして、その横にクローズされたお堂風の小屋。不思議なのは、赤川神祠には西国第32番観音寺の御詠歌が掲げられています。さてさて??

とりあえず、両者の写真をUPして逃げましょう。

でも、やっぱりなんだか変ですね~。違う気がする。。。

 

 



六十五番札所 下十楽  北60

 鍵がかかり、中を拝見することはできませんでした。隣の石祠に「下十楽」と刻まれていました。

 



奥院 上十楽  北59

近所の方に、お話を伺うことができました。長い間、ここにお住まいのレタス農家の方がお世話をされていたそうです。とにかく、勤勉なご夫婦で、よく働かれる方だったそうです。しかし、入院され、現在はどなたもこのお堂のお世話はしていないそうです。

 



六十四番札所 平 寺崎藤太郎宅  北55

現在お住まいの方に、確認を取ることができました。藤太郎さんはご先祖様だそうです。このお堂には、毎年小学生の見学が来るそうです。

 

 



三十七番札所 平 寺崎忠造宅  北53

お住まいの方から、直接お話を伺うことはできませんでしたが、近所の方が、忠造さんの家は、ここだったと思うよ!と聞くことができました。

四国の第37番札所 藤井山 五智院 岩本寺には本尊が5つ在ることから、三井四国では、そのうちの3つの本尊を札所として設定されています。つまり、37番札所は全部で3つあるということです。

 

 



五十六番札所 末次 村中  北56

このお堂しか考えられないのです。しかし、川北道中案内の道順で考えると、どうも順路に矛盾があるのです。東側の道と西側の道を繋ぐ近道がなかったと判断すれば、多少納得は行くのですが・・・

 

 



奥院 下西城 普済寺  北44

臨済宗妙心寺派 聖観音菩薩

 

 



味坂村 八坂?  

絵地図には、タルカドの北側に「味坂」と書かれています。しかし、味坂という名前は、味坂村しか思いつきません。味坂村の中に上西鯵坂・下西鯵坂・八坂・光行といった字があるようです。味坂村の意味だとすると、タルカドの近所というよりは、56,77番札所から移動する場所ではないでしょうか?

すると、思いうかぶのは八坂。明治の地図を見ると、なんとなく味坂村の中心は八坂に思えるのです。もちろん現在の道は新しいので、ちょっとした移動はあったと思います。

かなり根拠の薄い推理ゲームになってしまいました。

 

 



七十七番札所 馬渡(バト モト)  北42

明治33年の地図には、「バト」とルビが打たれていますが、現代の国土地理院の地図には「モト」と書かれています。

名馬池月との関わりがある地名なんだろうか?

上西馬渡薬師堂 薬師如来像

木像

室町時代に遡ると考えられる貴重な木像。

 



司家 寺崎繁宅 (ジケ)  北41

2021年6月14日取材記録

一枚目の写真の右奥にあるお宅が、磯吉さんのご子孫邸でした。見事に記録された家系図には磯吉さんの名前はありませんでしたが、寺崎家で間違いないそうです。家系図は、家を継いだ人のみが書かれているので、その兄弟は記録されていません。

 

実は、このお堂はもっと二枚目の写真の右奥の屋敷の中にあったそうですが、もっと多くに方にお参りしていただきたいという願いから、現在の道筋に移動したのだそうです。

明治26年寺崎磯吉と刻まれた不動明王や観音菩薩が並べられていました。大正15年の記録にある寺崎繁さんのお父さんかな?

 

あ!寺崎磯吉といえば、明治36年に四国に渡ったその人ではないか!発見。さて、子孫の方を探しましょう。

 

 

 

左に記した調査の結果でも、磯吉さんとその他13名との関係はわかりませんでした。

住所が全く異なる14名の四国お遍路。謎が深まります。

 

(全くの感ですが・・・)

金持ちの家の家督を継がなかった時間とお金をもった人々の、友好関係のような気もするのです。

多くの石に刻まれた人名は、総合するとなんとなく長男名ではないような感じなのです。笑;

 



八十六番札所 味坂村 司家(ジケ)  北40

 

 

 



七十六番札所 御原村 鎌太郎   北22

 地元の方のお話をうかがいたいお堂です。

 寛延記に記録があるとのこと。

 



四番札所 御原村 用丸西   北19

 時代が変わったということを、全身で感じることができるところです。

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小郡市史に以下の記述あり。(要約)

辻の前の古道の横に観音堂や石仏などのある大地があり、そこには大日如来を収めた祠がある。大日如来は真言宗の本尊で、弘法大師とともに広く庶民に信仰された。

大正年間までは、大日さんのまつりがあり、祭礼日には近隣から多くの参拝者があり、花火が上がり賑わったといいます。十二神将の石像があり、裏には文化十一年と彫られている。

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この十二神将が祀られているのは珍しいこととのこと。

 

パノラマ撮影の為、湾曲してます。



四十六番札所 端間  北16

 そもそも、端間という地名はあるのでしょうか?この地は、かつては重要な港だったようです。現在ある堰のところが、橋のような役割をしていたのではないでしょうか?端間と呼ばれるところは、御原村端間と東福童端間の二箇所があるようです。つまり、川の両岸なんでしょうね。