赤司 から 今寺 へ
城ノ南は地域名。樋口次吉さんの子孫のおばあちゃんに会うことができました。いつ行ってもお二人で仲良くお堂でおしゃべりのようです。
この樋口次吉(ジキチ)さんの旧姓は南島(ナジマ)だったそうで、その名前が石灯籠に刻まれていました。明治29年とも刻まれていました。個人のお堂ですが、お堂の再建などは地域の人々の寄付で行っていたようです。「ザ・お堂」という存在に見えました。樋口次吉さんって、どんな人だったんでしょうね?
「六ノ栄」はおそらく「六ノ江」の誤りだと思われます。地元の方のお話では、この辺りに平田さんという家はないとのこと。この「六ノ江」は町内組名だそうで、組内でこの観音堂のお世話をしているとのことでした。とすると、もしかすると平田甚太郎さんのお堂は、別のところにあるのかもしれません。
この赤司というところは、お堂を大切にする集落のようです。
2021年8月
現在あるお堂の場所は、中友建設さんの敷地です。しかし、石仏には樋口利市とはっきり彫られていました。お隣の、これまた樋口さんにお話を伺ったところ、利市さんのお宅は、稲数公民館の前とのこと。そこで、その樋口家を訪ねてみましたが、若い方で、わからないとのことでした。しかし、かつての敷地はかなり広かったと聞いているとのこと。再度訪問してみましょう。なんにしろ、このお堂が、60番札所樋口利市宅で間違いないと思います。
川北四国道中案内では、乙丸の霊場は一か所のみで、「酒場」と記されています。酒場とは、現代の感覚では「飲み屋」のように感じますが、乙丸の酒蔵が相当すると考えています。現在の、山の壽酒造(株)です。
ただし、川北・川南、両者の道中案内を照らし合わせると、72番札所は、高良内村の慈童寺が適合するのです。これから明らかにしていく必要があると思うのですが、明治35・36年の三井四国八十八か所開創のころは、札所が適時変動していたようにも見受けられるのです。色々と差し引きが行われていたのではないでしょうか?
道中案内書との差異が見られるポイントです。
①川北道中案内には72番は無いのです。
②川南道中案内には72番が有り、高良内村になっている。しかし、絵地図では②は有りえません。
③川北道中案内では、乙丸は60番になっていて、お隣の稲数も60番。
上記を総合的に判断すると、川北道中案内の乙丸の霊場60番は、72番の誤記ではないだろうか?
以上のように推察してみました。