赤司 から 今寺 へ



七十八番札所 赤司 城 南島新五郎宅

現在お住まいの方も南島さん。でも、新五郎さんの子孫の方である証言を得ることはできませんでした。でも、近所に方は、「新五郎さんちは、ここバイ」と自信満々でした。笑;

 



十八番札所 赤司 南

地元の方に案内していただくことができました。このお堂には、十八番恩山寺と書かれた板が掲げられていました。ここで間違いないだろうと思います。

 



奥の院 赤司 上町

ちょっとした高台にありました。上町中と彫られた手水鉢がありました。日常的にお世話がなされているお堂のようです。日めくりカレンダーも、取材当日になっています。気持ちいですね~。

 



七十一番札所 赤司 城ノ南 樋口次吉宅

城ノ南は地域名。樋口次吉さんの子孫のおばあちゃんに会うことができました。いつ行ってもお二人で仲良くお堂でおしゃべりのようです。

この樋口次吉(ジキチ)さんの旧姓は南島(ナジマ)だったそうで、その名前が石灯籠に刻まれていました。明治29年とも刻まれていました。個人のお堂ですが、お堂の再建などは地域の人々の寄付で行っていたようです。「ザ・お堂」という存在に見えました。樋口次吉さんって、どんな人だったんでしょうね?



四十四番札所 赤司 六ノ栄 平田甚太郎宅

「六ノ栄」はおそらく「六ノ江」の誤りだと思われます。地元の方のお話では、この辺りに平田さんという家はないとのこと。この「六ノ江」は町内組名だそうで、組内でこの観音堂のお世話をしているとのことでした。とすると、もしかすると平田甚太郎さんのお堂は、別のところにあるのかもしれません。

この赤司というところは、お堂を大切にする集落のようです。



六十番札所 稲数北 樋口利市宅

2021年8月

現在あるお堂の場所は、中友建設さんの敷地です。しかし、石仏には樋口利市とはっきり彫られていました。お隣の、これまた樋口さんにお話を伺ったところ、利市さんのお宅は、稲数公民館の前とのこと。そこで、その樋口家を訪ねてみましたが、若い方で、わからないとのことでした。しかし、かつての敷地はかなり広かったと聞いているとのこと。再度訪問してみましょう。なんにしろ、このお堂が、60番札所樋口利市宅で間違いないと思います。

 



七十二番札所 乙丸

山の壽酒造の大奥様のお話では、1818年の創業。その2~3年後にお堂が建立されたらしいとのことでした。現在のお堂は平成3年の台風で倒壊したので再建したものとのこと。なお、その台風で酒蔵自体も倒壊したそうです。

お堂には、明治15年と刻まれた72番の大日如来がありました。

気にかかるのは、「四郡八十八ヶ所」と刻まれた石塔と、屋敷の北西の門にも「四郡八十八ヶ所」の道標が立っていたこと。昭和4年とも彫られていました。さて、なんのことでしょうか?

川北四国道中案内では、乙丸の霊場は一か所のみで、「酒場」と記されています。酒場とは、現代の感覚では「飲み屋」のように感じますが、乙丸の酒蔵が相当すると考えています。現在の、山の壽酒造(株)です。

ただし、川北・川南、両者の道中案内を照らし合わせると、72番札所は、高良内村の慈童寺が適合するのです。これから明らかにしていく必要があると思うのですが、明治35・36年の三井四国八十八か所開創のころは、札所が適時変動していたようにも見受けられるのです。色々と差し引きが行われていたのではないでしょうか?

道中案内書との差異が見られるポイントです。

①川北道中案内には72番は無いのです。

②川南道中案内には72番が有り、高良内村になっている。しかし、絵地図では②は有りえません。

③川北道中案内では、乙丸は60番になっていて、お隣の稲数も60番。

上記を総合的に判断すると、川北道中案内の乙丸の霊場60番は、72番の誤記ではないだろうか?

以上のように推察してみました。

 



奥院 今寺

今寺は、現在の久留米市北野町金島の狭いエリアです。この霊場で間違いないだろうと思います。