五十五番札所 東福童 久冨熊吉宅 から 西島方面 へ
このエリアでは、寺福童を通ります。この寺福童は、私が睨む所、三井川北四国のキーとなるところだと思います。話を膨らますと、鳥栖の明治四国、基山のドロドロとの繋がりまで広がりそうです。
一度訪問しましたが、法事中だったので遠慮しました。再度、訪問してみようと思っています。現在も、久冨さんです。
2021年6月14日
行ってきました。でも、遅かった!
お庭は草が生い茂り、すべての窓は雨戸。
しまった~、実に悔しいのです。
どちらに行かれたのでしょうか?
どなたかご存じの方がいらっしゃたらご連絡下さい。お願いします。
おそらく、この空き地で間違いないだろうと考えていますが、一点矛盾点が・・
三池さんちは、絵地図によると道路の西側のはず。しかし、この地は東側です。さて、どう判断したらいいものやら。
絵地図を描く段階でのスペースの問題だと勝手に判断しましょう。
お堂だけは、ちゃんと保存されていました。
この辺りが熊手信平さん宅だったそうです。もう土地は売ってお住まいではないとのこと。おそらく、この辺りにお堂があったのでしょう。石仏は、禅福寺預かりとなったのでしょう。
なんとなく、時代の悲しさが・・・
木村福太郎という人がここに住んでいたことを、子孫の方に確認することができました。石仏は、禅福寺に預けているとのこと。
熊手文雄さん宅のお堂です。そもそもは、熊手久三(きゅうざ)さんのお堂。久三さんは、三井川北四国のキーマンだったのだと思われます。禅福寺に大きく名前が刻まれています。
ここで、面白いのは、弥勒菩薩の石仏があり、そこには「明治四国 明治22年」と刻まれているのです。この明治四国とは、基肄養父郡と三井郡、つまり肥前と筑後をまたぐ霊場巡りだったようなのです。この謎は、もう少し後で探ることとします。
三井四国八十八ヶ所霊場のスタート時、ここ禅福寺は重要な役割を担っていたように思われます。詳しい歴史はまだ分かっていませんが、明治の中頃まで無住寺だったようですが、ある僧侶が招かれて復興に努力したようなのです。
曹洞宗ですが、弘法大師が大きく祀られています。
若い住職のお話では、ここは山本の千光寺の末寺だそうです。
残念ながら、過去の資料が殆ど残っていないとのことでした。
2020年4月22日
寺福童にある禅福寺。ここには大きな弘法大師像があります。この像の台座には下記のように書かれています。
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川北大師創立紀念
明治四十一年三月
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(読めるところだけ書いてます)
明治41年=1908年
もう一つの石碑には
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修行大師拾三年忌
大正九年十二月廿日
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大正9年=1920年 その13年前は、1907年
もう一つの石碑には
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修行大師参拾参年回忌之碑
昭和拾五年○月弐拾壱日
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昭和15年=1940年 その33年前は、1907年
もう一つの石碑には
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修行大師五十年回紀
昭和三十一年二月二十一日
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昭和31年=1956年 その50年前は、1906年
数字がピッタシ合うわけではありませんが、三井川北四国は、明治40年か41年に始まったと考えて良いのではないでしょうか?!
ということは、三井四国八十八ヶ所霊場、つまり絵地図の広域巡礼が明治36年にスタートしたとすると、その5年後に北と南が別れて行われるようになった。
つまり、川南道中案内書は明治41年頃のもので霊場は90、川北道中案内書は大正15年に書かれたもので、霊場が90から334までに膨れ上がっていた。
いかがでしょうか???
さてさて、この弓削という地名に悩まされました。でも、やっとの思いで発見。地名研究会の方のお話では、弓削という地名は、普通「上」と「下」の対になっていると。関所のような役割があるそうなのです。しかし、その「弓削」もさることながら、江下(えげ)という字名から来てるようにも思えるのです。
でも、ま、立派な霊場を発見することができました。こんなお堂は、バイクじゃないと、発見は無理です。
北の浦。これって、北にある沼地ってことじゃないでしょうか?
確かに、現在人工の池が作られています。
字「北浦」と思われる場所に、2つの石仏を見つけました。一つは、今ある北浦児童公園の西側の民家。もう一つは、公園から自動車道をくぐって北へ行った所。
この2つのどちらかが68番札所と言えるのか?
でも、私が思うに本当の「北浦」とは、現在の北浦児童公園より南側なんじゃないかと思うのです。で、北浦児童公園は、「古祇園」という字ではないだろうか?
実は、それ以外にも臭う場所あり。。。
また、小郡日吉神社の北側にいわれが書かれた五体の石仏が並んでいます。しかし、そのいわれを読む限り、明治の中頃に大切にされていた石仏とは思われないのです。
ですから、日吉神社の五体の石仏は除外することにしました。
左画像は、小郡日吉神社にて
(クリックで拡大)
2021年6月17日調査
北浦児童公園の西側のお宅を訪問しました。親切に教えていただきました。
1.現在の石仏は、昭和期に教えてくださった方のお母様が置かれたものでした。
2.かつて、現在の児童公園あたりは沼地だった。
3.私の想像どおり、「字北浦」は公園より南側のようです。
4.よって、現存する2つの石仏は、68番札所ではない。
小郡市誌に掲載されている字図で、北浦のエリアを想定してみました。北浦は、かなり広いエリアのようです。大正15年の地図に上塗りしてみました。
このエリアで再調査してみます。
2022年1月
悩ましいのですが、トータルすると日吉神社の石仏しか該当するものが無いと判断します。悔しいのですが、日吉神社を68番札所の石仏が北浦から移動してきたところ!ということにしましょう。
大正15年に作成されたと思われる「川北道中案内」によると、小郡北浦と西島との間には、ただ一つの霊場。それは・・
「大野 神社内」
と書かれています。
しかし、今の所大野というところは見当たりません。
もし、大野が大原の誤記と仮定すると・・
大原神社が浮かび上がります。
行ってみるとお堂がありました。