六十二番札所 東林寺 から 八番札所 高良内一ノ瀬 へ
真言宗のお寺です。明治に入り再建されたお寺です。
お若いご住職にお目にかかることができました。が、収穫はありませんでした。
とても不思議な御札を発見しました。三井川北四国の御札です。一体どういうことなんでしょうか?
もう一つ。草野にあるお堂に、三井四国第61番霊場という石碑が立てられているのです。どうも、明治36年に建てられた石碑のようなのです。明治41年に作成されたと思われる三井四国遍路道案内には、草野の鍛冶屋町のお堂が61番札所となっています。
推察するに、明治36年の時点で、東林寺が61番だっが、すぐに草野エリアが霊場に加えられ、61番が草野鍛冶屋町のお堂になった。のかな?
【重要】
東林寺という記載を地域名と考えると、東林寺から登った「鶴ヶ城」も有力な候補とも考えられます。
絵地図には、「安意寺」と記載されているが、どう見ても、安養寺を指していると思われます。その他、いくつかの寺院も名前を変えて記載されたところがあります。これが、どういった理由によるものかはわかりません。
鎌倉時代に開山された当初は、天台宗の寺院だったそうですが、聖光上人が訪れてからは浄土宗となったそうです。
磐井の応永地蔵が祀られています。応永というと、1394年から1427年のようです。
ここには、冷たい水が湧き、野菜を洗うプールみたいなものもあります。かつては、この辺りには牛もたくさん飼われていました。
高良山界隈の地名で、「北山」という記述をどこにも発見できませんでした。「北谷」という谷は現在もよく使われます。高良山に対して北側の山というと、吉見獄が思い浮かびます。しかし、かつてより「こうぼうさん」と呼ばれていた経緯から、ここを霊場して選んでみました。
御井町にある御井寺の裏側を登るとたどり着けます。良山中学校の先にある団地に向かう坂を途中から高速道路に沿って登っても行くことができます。かつては御井小学校の裏側にある磐井の清水のワキから登っていくのが通常ルートでしたが、高速道路が道を分断してしまいました。
88躰仏が並んでいますが、本体と台石にズレが発生しています。御井寺のご住職のお話では、以前北山の●●仏は盗難にあったそうです。
並べられた八十八躰仏に疑問があったので調査してみました。結界が以下の「北山調査」です。
上記、北山の石仏を調査した結果、以下の人々の名前が見えてきます。
権藤市次郎、長門石甚吾、眞子庄七 他
(長門石=江戸末期?~大正八年去 御井町誌 石は語る P206に登場)
どの人も、明治後期~大正前期に活躍した人のようです。
そうすると、ここに並ぶ八十八体仏は、そのころのものと考えられます。
廃仏毀釈で、多難な道を歩んできた御井寺。平成時代には、ここの本堂にお遍路さんたちはお参りをしていたようです。しかし、他の霊場からみて、本堂を霊場とする例は少ないものです。御井寺の前に小さなお堂があります。この小さなお堂が霊場ではないかと考えています。
一番札所北山から、絵地図には四丁と記されています。きっと、御井町を経由したルートでしょう。北山を下り降りるという近道もあります。
このお堂が、現在、八坂寺と呼ばれているわけではありません。いわれは、下記に記します。
高良山の下宮、通称祇園さんと呼ばれる神社の南の小道沿いにあります。御井町の中心にあり、かつては随分賑わったものでしょう。お堂の隅っこに六地蔵と思われるものが置かれています。
御井寺からは、400メートル。
【御井町誌189Pより】
大師堂
弘法大師修行の遺跡である霊場(札所)四国八十八ヶ所を祈願のため、巡り歩く人を「遍路」といい、西国三十三ヶ所を巡る人を「巡礼」と呼んでいる。
(中略)
宥浄(ゆうじょう)という足の不自由なお坊さんが、四国巡礼の途上、夢の中で国元に弘法大師を持ち帰り、
まつるようにとのお告げを受けた。それを聞いた人達が宥浄のために力を貸したのである。
大鍋屋の協力で現在の大師堂の地(当時はまだ広かった)を譲りうけ、八畳と六畳二間のわら葺き屋根の建物を作り、四国八坂寺から持ち帰った弘法大師と共に住んでもらうことになった。しかし、独立した寺として認められなかったので御井寺の下寺としての資格をとり、 祈祷所としたのである。
別名八坂寺とも呼ばれていた。祈祷師としての宥浄の評判を聞いて「きつねつき」「霊ののり移った人」「物の気にたたられた人」等が、府中はもとより追分、山川、草野、久留米市内からもやってきたという。
病状を聞き、折りたたんだ経文をパラパラとと音をたてて上下に伸ばしたり縮めたりして祈祷をしたそうである。敷地内には、台座の上に2.5メートル程の見上げるような石の地蔵さんがあり、その他十三仏「でこだよさん」「火の神さん」「地の神さん」などがまつってあった。「でこだよさん」とは、伝染病の早期治癒を祈願する神様で、ひとかかえ位の大きな自然石で、別段何も刻まれてはいなかったが伝染する病人がでるとみこしに乗せ、「でこでこ、でこでこ、でこだよさん」と、唱えながら町内を回った。
今は弘法大師像は勿論のこと、この石も大きな地蔵もなく、十三仏のうちの数体が大師堂の脇に所狭しと並んでいる。堂の中にあるのはお大師様ならぬ不動明王で、日本人の宗教に対する寛容さを如実に物語っている。
この大師堂の元である八坂寺を建立したのは、現在このお墓を守って世話をしている、井上清太郎、上野作太郎、青柳本家(大鍋屋)同、分家、遠藤、諸富(宗崎在)諸氏の先祖である。大師堂を運営していくために、「何日には大般若があるのでお参り下さい」といって仏飼袋を配り、米や麦など入れてもらって集めて回るのである.大正年間頃までは、子供達二十人位が中心になって、五、六人の大人達と一緒に巡礼の身支度を整え、菅笠に金剛杖をつき、鈴を振り、ご詠歌を歌いながら近隣の村々を回ったということであった。その時に着た巡礼の装束を「あいずる](笈摺)オイズリと呼んでいた。袖なしの半てんで背中に赤い縦縞は両親健在、青は片親、白は親なしの子供を意味していたという。
金剛杖は、弘法大師の御手であるということで、使わない時は洗って大切に床の間に飾ってあった。
四十七番八坂寺から200M。
府中街道から20Mほど東に入るとあります。6体の石仏。「三界萬霊」と彫られた石碑があり、久?政四巳年正月吉日と彫られています。屋根には、大師堂と書かれています。どなたかがお世話をされている形跡はなく、放置されたお堂でした。
かつての御井町商店街の北側を上町、南側を下町と呼びます。
2023年2月18日 追記
倉庫になっていました。