善導寺古北 から 勿体島 エリア
上部に描かれている川は、「ちとせ川」つまり筑後川で、右側が上流です。帆掛け船が描かれています。ちとせ川の左手に描かれているのが、古北の渡しだと思われます。
川南道中案内の整理番号4が、43番札所となっています。ここが、43番札所だと考えていますが、確信はありません。
この地が、上品寺跡という情報もありますが、これもまた、定かではありません。
情報があれば、ぜひご連絡ください。
新町公民館と合体したお堂です。いかにも、随所にあった仏様を集めた感じです。ということは、ここがこの辺りのメインとなるお堂なのでしょう。
ここに川が流れているわけでもないが、立派な橋がかかっています。地元の方のお話では、ぬかるみで、リヤカーなどを引くのり苦労したところで、橋ができたんだそうです。華やかな門前町だったことでしょう。おこし屋さんあり、かつては六社の酒造メーカーがあったそうです。
善導寺の中にある威徳院。一応本山の管轄下にあるようですが、荒れ果てています。
八十八体仏が並んでいます。
ここに、一本杉と彫られた弘法大師像があります。この石仏は、おそらく、次の霊場、一本杉から移されたものだと思われます。
左マップの加月食堂がある辺りを、かつて赤岩と呼んでいたそうです。川南道中案内によると、この赤岩に「一本杉」という霊場があったようです。しかし、聞き込みをしてみましたが、知っている人はいませんでした。一つ前の霊場、五十七番札所「威徳院」に「一本杉 弘法大師」と刻まれた石仏がありました。おそらくこの弘法大使石仏が、左の赤岩あたりにあったのだろうと考えています。
太郎原に一本杉という名所がありますが、これとは別のようです。
絵地図には、「誕生地」と記されています。さて、誕生地とはどういう意味なのでしょうか?解りません。推測エリアに「産神社」というものがありますが、その様子は全くありません。誕生地といえば、善通寺。しかし、そんな気配はどこにもありません。
絵地図には、水天宮や高良山なんども記載されています。ただの目印の可能性もあります。確かに、明治四十一年頃と思われる川南道中案内には、ここに相当する霊場はありません。
それとも、ここか?
現在、お堂はありません。跡のみが残っています。近所に方のお話では、若い人々に聞いてみて、負担になるようだったので、どこかのお寺に預けたそうです。
グーグルストリートに、解体する前のお堂が写っていました。最後の写真は、その写真を拝借したものです。ごめんなさい。
さて、絵地図ではここで南にルートを変えて、耳納連山方面に移動します。が、どうもこの絵地図が制作された直後に草野方面に、遍路は伸びているようなのです。
この調査では、とりあえず絵地図の解明に専念することとします。