六十七番札所 八間屋 から 大隈 へ
絵図では、八間屋から西に(上に)進む順路なのですが、このエリアは陸軍施設と空襲で現在とはかなり変化したエリアです。
まず、この絵地図が書かれたと思われる明治35年と明治41年頃の地図とを見比べてみましょう。問題は、明治41年創設の第18師団の存在です。
下の左の地図は、明治33年の地図で、右は大正15年の地図です。陸軍が現在の学園通り沿いに大きなスペースを取っています。
明治33年
大正15年
なかなか分かりにくいので、軍の施設をなぞってみると下記のようになります。
上記地図の右端にある●のマークは、全ページで紹介した日の隈霊場です。絵地図によると、その次となるのが八間屋の2つの霊場となるわけです。
青い●の前を通る道は、柳川街道府中道。
ここにあるお堂が、67番札所ではないでしょうか。
余談になりますが、この八間屋という地名の南の部分は、国道3号線を挟んではいますが、日の隈という字名のようです。
【金子祐幸氏による郷土調査資料「八間屋村から国分自治区へ」】より
この札所に手水鉢がある。見ると、「奉納 明治36年3月 八間屋 三池郡大牟田 吉田ムラ 竹原マツ」とある。大牟田在住の吉田さんと竹原さんが八間屋の札所に、手水鉢を寄進したのである。久留米から約50キロメートルも離れた大牟田のお二人が、奉納されたのはなぜであろうか、と興味が湧いてくる。
しかしながら、このエリアの札所の確定は非常に難しいと考えています。その理由は、やはり陸軍兵営施設による状況の変化です。
絵地図によると、国道3号線を基準に見てみると、67番札所は北。52番札所は南に位置することになります。
そして、遍路は52番札所から西に進みます。つまり、41年に建設された軍の施設により、全てが撤去、または移設された可能性が高いエリアなのです。
絵地図に記載されている「西クルメ」とは、現在の西町に相当しますが、軍施設の西側半分も西クルメでした。
下記の地図で言う「大字西久留米」と記載されているところです。
とりあえずと言ってはなんですが、既存のお堂を結んでみることにします。
金子祐幸氏「八間屋村から国分自治区へ」より
悲しい出来事でした。
2019年9月19日撮影の写真と、
2021年5月13日撮影の写真です。
久留米高校前のバス停のところです。
いつにまにか、撤去されていたのです。
私の調査も急がなくてはいけません。
ところで、ここの仏様はどこに行かれたのでしょう?
今津福と表記されていますが、これは「津福今」の誤表記だと思います。
津福今町では、2つの霊場を候補と考えています。
一つ目は、津福団地の脇にあるお堂。旧209号の津福今町という交差点にあります。
二つ目は、新しい209号線の十二軒屋西という交差点脇です。
わからぬまま決め込むわけにも行かず、2つを候補に上げておきますが、私としては、津福団地のお堂を有力に考えています。
疑問が多い霊場です。明治41年制作ではないかと思われる案内書には、「三十八番札所 苧扱川出町」と記されています。そして、この出町は、現在の本町の秋葉宮跡辺りになるのです。この秋葉宮跡は、「柳川街道原古賀町木戸跡」に当たるらしいのですが、この資料が見つかりません。現在、秋葉宮は撤去されています。さてさて、この秋葉宮とはどんなところだったのでしょうか?
なんとなく、石仏たちは何らかの理由で、ここにお引っ越ししてきたようなお堂です。しかし、条件的には、ここが札所だと判断します。
ただ、もう一つ個人の敷地と思われるお堂も可能性があります。そのお堂には、新しいお札が備えられていました。
後述する予定ですが、このお遍路は、時代とともにお接待優先になった気配があります。
「あそこのお堂は、お接待しなしゃれんけん、お参りしちゃらん」