上岩田 から 造出 へ
赤い円のところを、上岩田と想定しています。あまり頼りにはしていないのですが、絵地図に記された距離では、稲吉から18丁6間。上岩田は、概ね距離はあいます。
そして、松崎を通り、南下するわけですが、ここでいささか疑問がわきます。どうして、49番マツザキへは、行って戻る往復的ルートになっているかです。街道は、松崎上町→下町→福泉寺→下岩田と続いているのに、なぜ?
ここで重要ななことは、「明治35年ごろ、福泉寺はどういう状態だったのか?」なのです。どうも昭和3年に再興されたお寺のようなのですが、さて、明治35年には、スルー寺院だったのか?もし、スルー霊場ならば、松崎上町から西へ進み、南下するというルートも考えられるかも?
上岩田磐戸御堂 如意輪観音像
Wikipedia より
如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏像で、立像はまず見かけない。片膝を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に、尊名の由来である如意宝珠と法輪とを持っている。
だそうです。
下岩田の北側にある霊場として、ここをノミネートしてみます。上記しましたように、福泉寺ということも考えられるのですが、松崎往復ルートというのが気になったわけです。不動明王などが道端に立ち、霊場感あふれるところでした。しかし、荒れ果てていました。
大正15年の川北道中案内によると、下高橋の霊場は、下記の6ヶ所です。
鵜木、つまり東側より移動してくる流れです。
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整理番号 場所
270 郡道際
271 郡道より南入り 堀田宅
272 下高橋南 神社内
273 下高橋西
274 高橋宮社内
275 同所
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270は、推察です。
272は、かつて神社だったようで、今は下高橋仏堂と呼ばれるものだと思います。
274は、現・下高橋竈門神社。おそらく新しい神社だと思います。その中にあるお堂。
275は、274のすぐそばのはず。15間。
と、色々考えてみましたが、濃厚な論証もなく決め手に欠けます・・・
下高橋竈門神社自体は、かなり新しいものと思われますが、そもそもは「高橋城跡」ということを考えれば、下高橋集落にとっては重要な場所だったのではないでしょうか。そこで、ここに寂しく残されたコンクリートのお堂を下高橋の霊場として挙げておきます。
川北四国道中案内では、37番札所は、にいた(仁井田)五社と記されています。明治の神仏分離で五尊札所が岩本寺に統一されます。で、本尊は5仏となります。そして、絵地図には37番札所は3か所になっています。
①平 寺崎忠造宅 ②高良内村 字内野 、そして残る一つがこの37番札所なのですが、ここで二つの候補が登場します。一つは、上高橋 佐藤千太郎宅(261) そして、もう一つが牛ノ川 神社内(136)。どちらも37番です。さて、下高橋→上高橋→造出 または、下高橋→牛ノ川 神社内→造出。
どちらも、納得いくお遍路道になります。
しかし、私の納得度では、「下高橋→上高橋→造出」の方が、「下高橋→牛ノ川 神社内→造出」より、絵地図のニュアンスに適しているように感じるのです。
上高橋の佐藤千太郎宅はなんとか発見することができました。しかし、現在も佐藤さんがお住いの、まったくの私有地内です。外から、お堂の覗き見写真だけをとらせていただきました。
美味しいラーメン、「一味ラーメン」本店の近所です。僕は、小郡のときの「一蘭」の会員でした。
ある時、僕がラーメンを食べていたら、一人の客が入ってきて、「ラーメンください」と言って待ってたら、ラーメンが完成!そしたら、店主の親父が喰いだした!客は、「おい、それ俺のラーメンだろ?」というと、店主曰く「俺が先に注文していた。だから俺が先に喰う」だと。たまがった~。
僕の持論。ラーメンは堅麺じゃなくて普通麺の方がスープが絡んでうまい。