116年間続いた「三井四国八十八ヶ所霊場巡り」は、
平成31年春のお参りを最後に、幕を閉じたのでした。
明治36年に始まり、116年ほど続いた三井四国八十八ヶ所霊場巡りは、ほとんど記録が残されないまま消えようとしています。
私が調べたところによると、、、
明治36年スタート。旧三井(みい)郡、今で言う久留米市と小郡市、大刀洗町あたりをエリアとした八十八ヶ所の霊場巡りで、ほとんどの霊場は辻堂などの集落で維持されているところです。
明治35年と36年に14名の人々が四国を遍路し、お土をいただき、写し霊場としてスタートしたものです。
このお土の残りは、いまでも久留米市寺町の医王寺に保管されています。
スタート当時は163ほど(奥の院・番外含み)の霊場でしたが、各地の村々が「うちのお堂にもお参り下さい」と霊場は次々に増えて、なんと600以上にも膨れ上がったそうです。お参りする人々も、千人を超える大行列の大参りと成長し、運営がしづらくなり、明治41年より筑後川を隔てて川北と川南に別れて実施されることになったようです。川北は「三井川北四国八十八ヶ所霊場」と呼ばれ、川南はそのまま「三井四国八十八ヶ所霊場」と呼ばれることとなりました。
行く先々では、村人が事前にお接待の計画を立ててお迎えをします。また、客人神として宿泊の提供もしていました。
しかし、時代とともに人々の感性は変化し、お接待もなくなっていきました。しかも、代が変わり、土地の売買にお堂がじゃまになる始末。
そして、川北は、平成18年頃に終了しました。
川南も、平成31年春のお参りを最後に幕を閉じたのでした。
高齢化が廃止の要因だと言われていますが、116年もの間、若い人々に引き継がれて続いてきたわけです。やはり、感性の変化以外に衰退の理由は考えられないのではないでしょうか。
あくまで任意団体としての活動ですが、お世話役として川北は如意輪寺(かえる寺)さん、川南は医王寺さんが協力されていたそうです。
ここで大発見!
この絵地図は、久留米の医王寺のご住職が保管されていたものです。なんと、明治36年スタート時の絵地図なのです。
いささか疑問点もありますが、この絵地図でいくと全部で163の霊場となるわけです。
その後、どんどん増えて600以上にもなるのですが、個人敷地内のお堂も多く、全てを調べ上げるのは不可能と判断しました。
そこで、研究会(といっても僕一人)としては、原点であるこの絵地図の霊場を調べ上げることとします。
もう一つ!大発見Ⅱ
「三井四国川南道中案内」という資料を医王寺のご住職がお持ちだったのです!!
この「川南道中案内」は、おそらく川北と川南が分離した後に制作されたものだろうと思います。明治41年頃でしょう。
しかし、明治35年と36年の2回に分けて四国を遍路し、お土を授かってきた14名の方々の名前も記されています。この14名はスタート当初ですから、川北と川南の人々が混合して登場しています。
この道中案内には、「四国の○○番札所の○○寺の○○という仏様を、どこのお堂にお連れしました」という写し霊場が記されています。
札所番号と順路は全く異なっています。そこで、札所番号とは別に整理番号をうちました。
もう一つ! 発見Ⅲ
川北の道中案内書を小郡市の文化財課がお持ちでした。ありがたいことにコピーを分けていただくことができました。この川北道中案内は、おそらく大正15年ほどに作成されたものだろうと思います。霊場の数が334にも膨れ上がっています。許可を頂かずにアップしていいものか悩みましたが、こっそりアップします。
その他、新しい資料はいくつかありますが・・・