陣屋東 から 北野今山 へ



四十一番札所 陣屋東

 ここで間違いないだろうと思っていますが、少々気になるのは、陣屋西に相当すると思われるお堂前に、「陣屋東広場」というバス停があるのです。え?ということは・・、ここは「東の東」?

 



奥院 陣屋

とても悩まされるのは、このお堂に昭和5年の石碑があり、「川北十番札所」と記されている点です。石碑の札所ナンバーが、必ずしも絵地図と対応していないことは重々承知していますが気になります。でも、ここを絵地図の「奥院」と想定すると、実に丸く収まるのです。

 



十番札所 陣屋西 

甚だ身勝手な犯行ではありますが、このお堂を十番札所といたします。往々にして「身勝手な犯行」は結構重たい罪となりますよね。すみません。でも、私の身勝手さが、絵地図に秩序をもたらすのです。

前述しましたが、ここには「陣屋東広場」というバス停があるのです。悩ましい限りです。

 



二十九番札所  中村 済保寺 

 川北と川南の道中案内を照合し、29番札所となっている霊場は、4か所。その中で、絵地図の29番札所と場所を同じくするのは、「中村 済保寺」です。さて、その中村とは、現在の「久留米市北野町中」という住所です。そして、そのエリアにある寺院はというと?・・西方寺!サイホウジ?→済保寺?

ということで、ここが浮かび上がってきたわけですが、どうしてなんでしょう?

いくつかの浄土宗寺院の漢字が変えられているのです。



四十二番札所  中村 天満宮北 

2020年4月取材

現在「コスモすまいる北野」があるところにお堂があったそうです。北野天満宮のトイレの裏側だったそうです。

そして、仏様はかえる寺にお預けされているとのことでした。

お堂は、「コスモすまいる北野」が建設されるときに取り壊されたようです。

お世話をされていた方に伺うことができました。コスモすまいる北野の建設でお引越しをされたようでした。



川北道中案内では、次のような順路(逆路ですが)になっています。

何度も記しますが、絵地図は明治35年作画。川北道中案内は大正15年頃記述。という差があるわけです。

 

●42番中村天満宮北(前記霊場)

 

●上町上

 

●上町

 

●北野中町 上瀧久助宅

 

●今山北

 

●今山白子山

 

以上5つの青候補の中で、絵地図では北野今山で三ヶ所の霊場が挙げられています。

検討の結果、以下の霊場を候補としてみます。


奥院 今山 上町上 

まず、上町・中町・下町という現地表現があり、参道の天満宮側が上となるわけです。さて、ここに挙げる霊場が上町上であるか?まずは、一旦設定した上で、検証していきましょう。

グーグルマップでは、ちょっとずれていますが、今山薬師堂です。



奥院 今山 北

此ノ御堂ハ天明四年建立ニヨルモノニシテソレヨリ百八年后明治二十一年二月再建立サレ昭和三十四年十一月再建立サレタルモ破損甚シキタメ中町上組世話人ヲシテ昭和六十三年七月改堂如此也

昭和六十三年七月十六日

 

2021年7月

この標板に「中町上組」とあります。

さて、中町とはおそらく参道の真ん中あたりの町割りだと思います。そして、その上組とは?北側という意味でしょうか?それとも、中町の天満宮側、つまり東側と考えるべきでしょうか?

この捉え方で、前霊場の想定も変更する必要があるかもしれません。

 



奥院 今山白子山 観音寺

中村の西方寺(浄土宗)の管理だそうです。

これにて北野町今山を終了し、西の十郎丸を目指します。

由緒記 白子山観音寺

この地は、由緒ある寺院正行山某寺の跡なりしが、今を去る二百四十有余年前(1744年、延享元年)今山邑庄屋楢原平左衛門なる人、寺跡の絶ゆることを憂い、有志を募り、勢州(三重県)より観世音菩薩を勧請、寺院を建立し、山号を白子山、寺名を観音寺と称し、これを祀り、今日に及ぶものと傳えらる。

本尊は白子観世音菩薩と称し、家内安全守護、安産守護として、廣くその守護を仰ぐ参詣者各地より多し。

更に脇立観世音菩薩並びに弘法大師を配す。