五十三番札所 味坂村 赤川 から 端間 へ
左側に描かれている川は、千歳川、つまり筑後川で、上部、方位的には西に描かれている川は、とく川、現在の宝満川です。赤川から北上していくお遍路道です。
赤川天満宮の入口辺りに、ブロックで組まれたお堂が一つ。そこから、西へ100メートルで赤川神祠。そして、その横にクローズされたお堂風の小屋。不思議なのは、赤川神祠には西国第32番観音寺の御詠歌が掲げられています。さてさて??
とりあえず、両者の写真をUPして逃げましょう。
でも、やっぱりなんだか変ですね~。違う気がする。。。
近所の方に、お話を伺うことができました。長い間、ここにお住まいのレタス農家の方がお世話をされていたそうです。とにかく、勤勉なご夫婦で、よく働かれる方だったそうです。しかし、入院され、現在はどなたもこのお堂のお世話はしていないそうです。
お住まいの方から、直接お話を伺うことはできませんでしたが、近所の方が、忠造さんの家は、ここだったと思うよ!と聞くことができました。
四国の第37番札所 藤井山 五智院 岩本寺には本尊が5つ在ることから、三井四国では、そのうちの3つの本尊を札所として設定されています。つまり、37番札所は全部で3つあるということです。
絵地図には、タルカドの北側に「味坂」と書かれています。しかし、味坂という名前は、味坂村しか思いつきません。味坂村の中に上西鯵坂・下西鯵坂・八坂・光行といった字があるようです。味坂村の意味だとすると、タルカドの近所というよりは、56,77番札所から移動する場所ではないでしょうか?
すると、思いうかぶのは八坂。明治の地図を見ると、なんとなく味坂村の中心は八坂に思えるのです。もちろん現在の道は新しいので、ちょっとした移動はあったと思います。
かなり根拠の薄い推理ゲームになってしまいました。
明治33年の地図には、「バト」とルビが打たれていますが、現代の国土地理院の地図には「モト」と書かれています。
名馬池月との関わりがある地名なんだろうか?
上西馬渡薬師堂 薬師如来像
木像
室町時代に遡ると考えられる貴重な木像。
明治26年寺崎磯吉と刻まれた不動明王や観音菩薩が並べられていました。大正15年の記録にある寺崎繁さんのお父さんかな?
あ!寺崎磯吉といえば、明治36年に四国に渡ったその人ではないか!発見。さて、子孫の方を探しましょう。
左に記した調査の結果でも、磯吉さんとその他13名との関係はわかりませんでした。
住所が全く異なる14名の四国お遍路。謎が深まります。
(全くの感ですが・・・)
金持ちの家の家督を継がなかった時間とお金をもった人々の、友好関係のような気もするのです。
多くの石に刻まれた人名は、総合するとなんとなく長男名ではないような感じなのです。笑;
時代が変わったということを、全身で感じることができるところです。
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小郡市史に以下の記述あり。(要約)
辻の前の古道の横に観音堂や石仏などのある大地があり、そこには大日如来を収めた祠がある。大日如来は真言宗の本尊で、弘法大師とともに広く庶民に信仰された。
大正年間までは、大日さんのまつりがあり、祭礼日には近隣から多くの参拝者があり、花火が上がり賑わったといいます。十二神将の石像があり、裏には文化十一年と彫られている。
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この十二神将が祀られているのは珍しいこととのこと。
パノラマ撮影の為、湾曲してます。
そもそも、端間という地名はあるのでしょうか?この地は、かつては重要な港だったようです。現在ある堰のところが、橋のような役割をしていたのではないでしょうか?端間と呼ばれるところは、御原村端間と東福童端間の二箇所があるようです。つまり、川の両岸なんでしょうね。