西島 から 横隈 へ
なんども書きますが、「とく川」とは、現在の宝満川のことです。絵地図の右側が北になります。
西島からかえる寺を目指します。
直ぐそばに、 西島如来石像(市指定彫刻)という文化財があります。しかし、なんとなく村の中心にある、こちらのお堂の方が、村に馴染んでいるような気がして、ここを霊場としてみました。
センターの観音さまには、明治18年と刻まれていました。
下写真は、 西島如来石像
2021年12月
西島にもう一つお堂を見つけました。
上記のお堂は、ムラのセンターに位置してますが、こちらは西の端にあります。大正15年の案内書には「村中」と「村西」があるので、こちらが絵地図の「西島村6番札所」(整理番号330)のように思われます。
しかし、ここに建てられた石碑が変なのです。三井四国◯◯◯と書かれています。
裏には、昭和四年と書かれています。細く「第六番・・」とも刻まれているのですが、どうも後日の追加彫りのようにも見えるのです。
でも、どうして昭和四年に「三井川北四国」と彫らずに「三井四国」と刻んだのでしょう?
疑問が残るお堂ですが、このお堂を六番札所としておきましょう。
【次の霊場 三澤の考察】
絵地図には、西島と古賀の間に、2つの霊場があります。
そして、大正15年の川北道中案内では・・
●三澤 神社内
⬇(5丁=約550m)
●三澤 村北山中
⬇(3丁=約330m)
●三澤 中尾
の、3つの霊場を廻っています。(道中案内書では、この逆ルートですが)
おそらく、上記3つの霊場のうち、2つの霊場が絵地図に書かれたものだと思われます。
●まず、最初の三澤神社内ですが、三沢には過去の地図を見ても、神社は一箇所のみ、三沢日吉神社です。
そこで日吉神社を探索してみましたが、お堂の痕跡は見当たりませんでした。平成時代にお遍路をされていたというご老人にうかがいましたが、日吉神社は遍路道に入っていなかったとのこと。
大正15年以降、つまり昭和期にお堂が移動したのだろうか?
●二番目の村北山中は、距離からして現在の薬師堂ではないかと思われます。
●続いて三番目の中尾。
上記 小字「中尾」は、地元の方のお話では、下記の場所辺りだそうです。
横隈は、当然「かえる寺」こと真言宗・如意輪寺でしょう。これは間違いないと思います。
ここのご住職にお話を伺うことができました。しかし、もっと詳しく伺おうと考えています。記録として。。
私は、この三井四国八十八か所霊場巡りの当初の幹事寺は、寺福童の禅福寺だったのではないだろうかと考えています。特に、明治41年以降の、三井川北四国八十八ヶ所霊場巡りでは、間違いなく禅福寺が中心だったのだろうと考えています。しかし、どの時点からか、ここ如意輪寺がお世話役になったと思っています。