宮の陣の 船橋を渡って 樽角 へ
宮の陣の有料の橋、船をつないで作られている船橋を渡ります。この橋は、この絵地図が書かれた直後、明治36年に廃止されています。
渡ると、すぐに東へ向かい、奥院、そして二十一番札所の国分寺を目指します。そして、ルートとしては、来た道を引き返すことになります。
宮地の渡しを降りて、まっすぐ進むと左手に久保田邸があります。大きな弘法大師像があるにも関わらず、なかなか見つけることができませんでした。現在お住まいの方に伺った所、昔はこの辺りは随分賑わっていたそうです。確かに、重要な街道ですものね。
久保田邸の霊場参りを終え、突き当りを右に進むと国分寺です。天台宗の寺院です。高良山と廃仏毀釈、この辺に歴史話があるところです。元三大師も高良山から移されたようです。ご住職にお話を伺うことができましたが、三井四国八十八ヶ所霊場巡りに関しては知らないとのこと。ここは筑後三十三観音霊場として活動しているそうです。確かに、三井四国八十八ヶ所のお遍路は、民衆の活動で、どこの寺院も、限りなく関わりは薄いようです。
明治35年に四国に渡り、写し霊場を造るために御土を受けてきた福成徳眼さん。その方の住まいがここに相当します。末裔の方にお目にかかることができました。同じ宮の陣内でお堂も一緒に、お引越しをされてました。そこで、鯖大師を発見しました。間違いありません。写真は、お引越しをされたところのお堂です。残念ながら、徳眼さんがどんなお仕事をされていた方なのかなどは、わかりませんでした。
川南の道中案内書に、二番札所は宮之地西町と記されています。この西町という表現は、今でも使うそうですが、区域が明確ではありません。
絵地図では、福成宅から右にカーブを取るように書かれていますが、そうすると数が合わなくなるのです。苦しいのですが、最も宮の陣駅に近いところにある、このお堂を二番札所としてみます。新たな資料が発見されるのを待つしかありません
北に行き過ぎた感じはしますが、ここではないだろうかと考えています。実は、このお堂はなかなか発見できませんでした。でも、古い地図を見る限り、かならず在るはずと思い、探し回った結果発見しました。この喜びは最高です!
五郎丸には、決めかねる霊場が3つあります。しかし、久保田喜三郎さんの絵図が奉納されていること、そしてここが昔から「オコボサン」と呼ばれていることから、もっとも有力な候補と考えます。左下の石の祠は、秋葉神社の不動明王でした。え?
樽角と書いたり、樽門と書いたりするようです。一枚目の写真には、樽角公民館と書かれています。コロナのせいで、子どもたちが広場で遊んでいましたが、お堂に供えられたお菓子には、目もくれてはいませんでした。きっとかつてはそんなことはなかっただろうと思います。子どもたちは、淡々とお菓子を狙っていたはずです。人々の感性の変化は、信仰だけではなく「食」にもあったのでしょうね。