奥院 出島 から 西野中 へ
絵地図を観察して見ましょう。
筑後川沿いに、水天宮・梅林寺が記載されています。
九州鉄道会社の列車が、明治23年に完成した筑後川鉄橋を渡っています。
筑後川を行き来する舟は、帆船。小森野放水路は明治31年に姿を表しのだろうと考えています。
でも、舟は旧河川を航行しています。
23番札所として、田町が書かれていますが、どう考えても間違いだと思われます。田町は、およそ現在の市役所前あたりなので、鉄道より下側、つまり東側に有るはずです。
この、池町沿いの祠が二十三番札所 田町ではないかとにらんでいます。上記しましたが、絵地図の田町の位置は、どう考えても間違いだと思います。
2021年8月
1639年(寛永16年)山伏了貞が勧請したと伝えられる薬師仏とは、この石仏のことだろうか?
いやいや、浪人茶屋。これはまた面白い霊場名の登場です。が、いったいどこなんでしょうか?この「浪人」という単語は、やはり廃藩後の浪人を指しているのでしょうか?実に興味深いお話となります。
しかし、今の所全く不明です。
ただ、後に記された三井四国遍路道案内にも「浪人茶屋」が登場し、それが、田町と寺町の間のようなのです。
調査!調査!調査!
昭和初年の久留米市誌には・・
有馬丁
明治三十四年市內日吉町の西南部を占めたる奮藩老有馬內藏之助の別荘地全部を毀ちて新市街を形成せり。當時今の私設市場附近を浪人茶屋と稱せしが後一般に有馬丁と稱するに至れり。
2021年8月
久留米市史第五巻の1304ページに驚きの記述を見つけました。以下は転写です。
有馬丁
(旧地名)明治三十四年、当時の日吉町西南部を占めた有馬泰秋(旧家老)の旧中屋敷全部を壊して市街を新設した。当時この区域内にあった私設市場付近を浪人茶屋といっていたが、のちに有馬丁と呼ぶようになった。
左の地図は天保の城下図です。おそらく、播磨中屋鋪と書かれたところだろうと思います。赤く塗られた大神宮は右手の日吉神社にお引越ししてます。現在の三本松公園辺りにあった神社だろうと思います。
日吉町の西南部とは、日吉町内部の西南地域ということだろうか?それとも日吉町から西南方面ということだろうか?おそらく、前者だと思うのだが・・・
すると、なんとなく浮かび上がるのが現在の文化街!
え~~?? 浪人茶屋=文化街 ? めちゃくちゃ面白くなってきました!
そして、明治33年の地図にのせてみると・・・
●緑の部分が現在の三本松公園(終戦後にできた公園)
●オレンジの部分が、中屋敷跡 池が2つ描かれています。
そして、基準として記した❤のマークの場所をグーグルマップに落とし込むと・・・
ワオ~、、なんとなんと、文化街ではあ~りませんか!
さてさて、夜な夜な散策してお堂を探してみましょう!酒場放浪記~
明治41年作成と思われる、三井四国遍路道案内書によると、50番札所は、小頭町一丁目となっています。小頭町一丁目とは、赤い丸のところです。現在の場所としては、西福寺の東側となります。歩き回りましたが、およそお堂のようなものは発見できませんでした。というか、この辺りは久留米空襲で焼け果てたところのはずですよね。
西福寺は浄土真宗。浄土真宗は阿弥陀様一筋の一神教です。ですから、このお遍路とは、まったく関わるところはないようです。
無量寺は浄土宗のお寺です。筑後西国三十三ヶ所巡礼の18番札所になっているそうです。しかし、三井四国八十八ヶ所の名残はありません。ご住職に伺っても、全く知らないとのことでした。
根拠がないお堂のオンパレードとなってしまいました。遍路道案内書では、51番札所は、原古賀町誓剛院となっています。
誓剛院とは?もちろん現在はありません。
明治期まで、各地に祈祷所があったようです。おそらく、この誓剛院も祈祷所ではなかったかとにらんでいます。仏教系の祈祷所の是非物は、不動明王です。写真の不動明王が気になるのですが、このお宅は、高齢の方がお住まいとのことで、ピンポンを何度押しても反応がありませんでした。張り込みをするしかないのかな?笑;
花畑とは、西クルメというところになります。久留米市史第五巻381ページに、『霊宝院(西町花畑)その他、不動明王には、祈祷・祈願と直結する信仰例も少なくない』という記述があります。この霊宝院の手がかりがつかめたら、何らかの進展があるかもしれません。
上記の地図は、明治33年、陸軍測量の地図です。緑の円がある花畑は西久留米で、当時は久留米市ではありません。
そいでもって、紫の薄円が西野中。西野中とは、国分村で、のちの諏訪野町だと思います。ですから、西野中は、紫の薄い円よりもっと、ず~と広く、南の方までがエリアです。でも、集落としては、この薄い紫の部分がほぼ中心だろうと思います。
そして問題の西野中のお堂はというと、絵地図では国道三号線の西側になっています。つまり、上記地図では、紫ラインの円の中辺りではないでしょうか。
三井四国八十八ヶ所霊場巡りが始まった明治36年頃は、上記の様子なので、紫ラインの円の中辺りに霊場があったのではないかと考えています。
しかし!以下の地図をご覧ください。
このように、明治40年に、陸軍第18師団の施設になったのです。この時、もし霊場があったらおそらく移設となると思います。さて、それはどこなのでしょうか?
これまた、全くの想像なんですが、国道三号線を挟んで諏訪神社があります。この横に、なんとも寂しく石仏が並んでいるところがあります。これはなんなのか?
調査しなくてはいけません。
で、もしかしたら、西野中の移動仏かも!
な~んちゃって。