力武 から 三十番札所 稲吉 用水端 へ
川北道中案内書にも、力武の「村中」と記されています。写真の場所は、力武区の掲示板も設置されていて、村の中心的な場所のようです。おそらくここが、奥院力武の霊場、力武坂本薬師堂だと思われます。木造 薬師如来像あり。
さて、続いての霊場ですが、絵地図を見る限り五十九番札所は、大保となっています。
しかし、川北と川南の道中案内書を抜き出すと、
59番霊場は、①味坂村平方と ②櫛原村と ③小森野 の三ヶ所になっています。
でも、場所からして櫛原村と小森野はあり得ないので味坂村平方に軍配を上げたいところですが、平方もあまりにルートを外れるポジションなのです。
では、大保の霊場にはどのようなのがあるかというと、
大保 村中 45番霊場
大保 村西畑中 31番霊場
大保 51番霊場
この三箇所なのです。
さて、ここからは私の仮説です・・・
味坂村平方には、井手幸吉という人物がいます。大正15年の川北道中案内には、惣代として彼に名前が記されています。
下記の写真は、平方にある彼の記念碑です。名前が幸吉ではなく孝吉となっていますが、年代的に井手幸吉さんをたたえる記念碑でしょう。
井手幸吉さんが活躍したのは大正時代。でも、絵地図は明治36年。もしや、59番札所を幸吉さんが地元の平方に大正時代あたりに移したのではないだろうか?!?
大保の人々と、何らかの約束事が発生したのではないでしょうか。。
というわけで・・・
あくまで明治36年の絵地図の再現を考えると、この59番札所を、どうしても大保に戻す必要があると考えました。
困りました。ここの住所は、 福岡県小郡市三沢5なのです。明治の地図を見ると、どう考えても大保集落に隣接する場所で、三沢集落とは、およそ関わりのない場所なのですが・・・
しかも、なんとなく仏様が集められているようにも・・・
「お寺めぐりの友」によると、下記のように解説されていました。
伊藤氏メモ
江戸初期に、黄檗僧の方迪禅師が由緒ある長福寺の地を惜しんで草堂を再興し、このときより長福寺は黄檗宗の寺院となった。後に寺勢は再び衰退したという。 明治末期、現住職の父上であり、宇治の萬福寺で修行した先代住職が入寺して再興。このときに、寺名を長福寺から福聚庵に改めたという。
なるほど、明治末期でつじつまが合います。
地元では、通称「おいたい」と呼ぶそうです。
川北道中案内によると、小板井には「小板井 東南」という霊場が一つのみになっています。
毘沙門天堂というのもあるのですが、なんとなくピンときません。
下の地図は、明治時代の小板井の集落です。その東南にお寺が一つ。現在の本照寺という日蓮宗の無人寺です。
2021年6月現地再訪問
違うようです。なんだか、キリシタンっぽい神様が祀られています。